日本の若者は生きづらさをかかえていると言います。
常に競争にさらされたり、誰かと比較したり。
あるいは辛いときに辛いと言えず、果ては命まで落としてしまう。
こんな日本人の生きづらさの原因を分析する研究もたくさんあって、書店にいけば本が山積みです。
悪いのは教育なのか、政治なのか、あるいは経済のせいなのか・・・。
でも私はなんとなく、それってたぶん少年ジャンプのせいじゃないの?と思うのです。
もしかしたらそうかも、と心のどこかで思い当たる人はストレス解消もかねてあと5分だけお付き合いください。
Contents
幼い頃からはじまる、ヒーローへのあこがれと呪縛
最初に断っておきますが、私はマンガが大好きです。
ご多聞にもれず、小学校くらいからずっとジャンプをはじめとする週刊少年誌は毎週買っていました。たしか180円くらいの頃から買ってましたね。
毎週、キン肉マンや聖闘士星矢、孫悟空にジョジョ、あるいは桜木花道や緋村剣心、ルフィに至るまで、数限りないヒーローの活躍に胸を躍らせたものです。
彼らに自分を重ね合わせ、毎週ジャンプ(マガジンもサンデーも)が発売されるとすぐに近所の本屋さんにダッシュしていき、食い入るように読んでいました。
でも、ふと読み終わって顔を上げるとそこには何があったか。
ごく普通の、いつもと変わり映えのしない、冴えない小学生の顔が窓ガラスに反射しているだけでした。
変わらなかったのは自分だけではありません。
世の中全体も相変わらず、血沸き肉躍るような冒険もなければ、選ばれたものとしての試練を与えてくれるわけでもありません。ただ何となく日常が流れていくだけ。
その中でなんとなく大人になっていく、それだけが絶対の真実でした。
あの感覚は絶望に近いものだったかもしれないな、と今になって思います。
自分が少年ジャンプのヒーローとは似ても似つかない存在であり、本当に取るに足らない存在だと気づいて悲しい思いをしたのはいつごろだったでしょうか。
同じように感じている人は少なくないでしょう。
どんだけバスケを練習して、本当にシュート2万本打って、果たして桜木花道になれた人がいたのか。
空を飛ぶどころか走り幅跳びだってろくすっぽ数メートルも飛べず、悪者を倒すなんてもってのほか。地元の不良と目を合わすことすらムリでした。
まして殺人事件の犯人なんて予想もつかないし、剣道だって初段にすら到達しない。
もちろん、かめはめ波なんて何万回やっても出る気配すらありませんでした笑
こんな自分を抱えたまま、そしてマンガの中のヒーローの輝きだけが目の奥に残像として残ったまま、さえない大人にならざるを得なかった人は多いでしょう。
自分ももしかしたらヒーローになれるかも、なんて幼稚な夢であることは誰しも頭ではわかっているはずです。
でも、やっぱり現実の自分が一般大衆の一人にすぎないことを否応なく思い知らされるという点では、意外とマンガの主人公たちも罪作りな存在だったのかも、なんて思ったりもします。
友情・努力・正義を信じるのも大変な負担だ
少年ジャンプでもうひとつ思い出すのが、この「友情・努力・正義」というフレーズ。
これに異論を唱えられる人はだれもいないでしょう。
でもですよ、世の中に出てみて、こんなのどこにありました?
殴りあった相手が急に味方になって、自分と一緒にさらに強い敵と戦ってくれるなんて話、どこの小学校でも聞いたことありません。
そもそも友情は移ろいやすく、いつも自分の近くではないどこかに偏在しています。
でなければ、これほど多くの子どもがいじめを苦にして自殺することなんてないはずですよね。
一方、努力は才能の前に常に無力でした。
さっきシュート2万本の話をしましたが、世の中には20本もシュートを打てばひととおりのことをマスターしてしまう恐ろしい才能の持ち主がいるものです。
こっちが2万本の練習をする時間で、向こうは1,000倍速く学習してシュートの精度を向上します。
そしてひと夏もたてば、もうどうがんばっても取り返せないくらいの差がついている・・・。
誰しも、そんな圧倒的な力の差を感じて打ちひしがれたことがあるのではないでしょうか。
正義も時と場合によって、あるいは誰かの都合であっさり変わりますよね。
たとえば、どこの会社でもそうなんじゃないかと思いますが、上の人間が言うことがその場の「正義」です。
昨日まで正しいとされていたことが、上が変わって急にひっくり返されることもあれば、同じ人間でも言うことが変わるなんてこともしょっちゅう。
それがイヤなら辞めろ,っていう話になっちゃうから面と向かって歯向かうこともできない。
そんな中、ジャンプに出てきたヒーローを内面化してしまった我々は最後まで「友情・努力・正義」を貫き通して戦わないといけない、と思い込んではいないでしょうか?
けど、ないものをあると信じて戦い続けるのは、はたから見るとむしろドン・キホーテに近いのかもしれません。
あきらめたら試合終了、でもあきらめないと人生終了
マンガでは最終的に、ヒーローが勝つことになっています(大抵の場合は)。
少年ジャンプのヒーロー像が精神の奥深くまでしみこんだ我々も同じように
「ここであきらめてはいけない」
「あきらめたらヒーローになれない」
と思ってしまっていないでしょうか?
そもそもヒーローにもなれず、友情も努力も正義も当てにならない世の中です。
それでもあきらめられないマインドセットを持ってしまったかつての子どもはどうなったか。
今やブラック企業に使い捨てられたり、やりがいを搾取されたり、あるいは肥大した自己像とのギャップが埋められないままひきこもったりしていますよね。
安西先生も「あきらめたらそこで試合終了だよ」と言っていました。
でも、今は試合終了2秒前で、点差は100点。
それでも戦え、というのはもうバンザイ突撃と変わらない。
そんな気さえするのです。
生きづらさの解決策:ヒーローでない自分と向き合うには
なまじカッコいいヒーロー像を抱えて育ってしまったが故に、現実の自分と理想とするヒーロー像とのあまりに大きなギャップに苦しむというのが、もしかしたら日本の若者が抱える生きづらさの理由の一つなのかもしれません。
あえてポジティブな言い方をするなら、そんな「等身大の自分」を認めてあげて、それを前提に自分の生き方を考えるのがまっとうなやり方でしょう。
もし、少しでもこの話に共感いただけたら、ぜひ一度僕たちはガンダムのジムであるという本を手に取っていただけたらと思います。
おいおい、さんざん少年ジャンプの話をしておいて最後にガンダムかよ、と思われるかもしれませんね笑。
でも仮にタイトルが
「僕たちはドラゴンボールの栽培マンである」
だったとしても、伝わるメッセージは同じです。
前書きにこうあります。
「僕たちは・・・ガンダムではなく、ジムなのだ。量産型で、よくやられる。自分はガンダムだ、主役だと信じているのだが、仕組まれた自由や幻想に踊らされ、いつしかジムのようになっている。会社にも社会にも埋没している。」
どうでしょう。
まさに我々の心象風景とマッチしているのではないでしょうか。
じゃあどうすればいいのか?ということもこの本の後半でいろいろと出てきます。
特に、
- すごい人にならなければいけない病
- 自分の人生戦略を考える
- 幸せを「客観視」する
といった見出しが気になる人には特におすすめしたい本です。
少しは気持ちがラクになると思いますよ。
まとめ
ヒーローになりたい、ならなければいけない・・という子どもの頃の思いは、いつしかオトコ社会で生きる我々の心をかえって縛り付ける鎖のようになってしまっていたのかもしれません。
でも、世の中はヒーローではなく、大多数の「普通の人」でまわっているもの。
決して投げやりになることなく、今の自分を冷静に見つめなおす機会になれば幸いです。
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